昭和43年4月17日 朝の御理解
中村良一
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ、小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
神参りをするのに、えらい、大儀と思うてはならぬ。この辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと仰る。お互い、こうして信心をさせて頂くのは、その徳を受けたいというのが、目的ですもんね。私共が、幸せになりたい。それには、とても、金があっただけでは、物があっただけでは、健康があっただけでは、幸せじゃないと気付かせて頂くところから、信心による、いわゆる、お徳。天地の徳というものを身につけさせて頂かなければ、人間の幸せは、あり得ないと分からせて頂くところから、信心が、本当のものになってくる訳なんですよ。そういう事が分かると、これは、雨が降るから風が吹くから、大儀だと思うちゃならん。えらいと思うちゃならん。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと、はっきり教えておられる訳です。ところが、お互いが、雨をいとう。風を嫌だと思う。これではもう、願っておる事と、思う事が、反対になる訳です。願うのは、お徳を受けたい。お徳を受けにゃ、人間の幸せは得られない。そうお互い、願っておる訳でしょう。けども、そこんとこに、はっきりですね、雨が降るから風が吹くから、神参りをするにということは、これは、信心をさせて頂くのにという事ですよ。信心をさせて頂いておる者がです。日々の中にでも、雨にも似たような、風にも似たような、本当に、心を吹きすさんで通るような風に合うような事があるかと思うと。本当に、これはお湿りじゃなかろうかと思う様に、心が、じめじめと湿ってくるような事もあるけれど。いわゆる、人生の、そうした難儀と言うか、雨風というか、そういうような場合でも、そこんところを辛抱して受けて行くという事がです。身に徳を受ける修行じゃとこう仰る。してみると、お互いが、身に徳を受けたい、身に徳を受けたいと言うて、信心しておるけれども。いよいよ、身に徳を受ける、もう、いよいよ受けられるという時に、それを、お粗末にしておるという様はな人が、大体、多いのじゃないでしょうかね。それでは、いわゆる、お粗末御無礼と言うなら、これほど、お粗末御無礼なことはございませんもんね。そこで、私共は、一つ、本気で、そこんところを、一生懸命、取り組ませて頂かなければならん。今日は、ここのところを、皆さん、ようわからせて頂きたいと思うですね。
如何に有難そうに、心経やお祓いをです。あげても、心に真がなければ、神に嘘を言うも同然じゃと仰る。お互い、神に嘘を言うような信心じゃ駄目なんです。わざわざ、大きな柏手を打つことは要らん。大祓いに節をつけたり、声を大きくしなければ、神に聞こえないということもない。柏手は小さくても、神には聞こえる。いや、柏手は打たんでも、神様は、扉を開いて待っておって下さる、真さえありゃ。
例えば、私の、四時の御祈念なんかにお参りしました方達は、それを感じられるだろうと思う。私は、四時の御祈念の時にはですね。御神前に出て、祝詞台について、頭下げたが最後、頭をあげる暇がないです。もちろん、柏手なんか打つ暇はありません。もう神様が、扉を開けて待っとって下さるんですもん。その代わりに、私は、ここから、あの、祝詞台まで行く、もう、胸がドキドキするです。いわゆる、宗教的感動と言うのだと、私は思うですね。信心を頂かなければ、頂けない感動なんです。しかも、ほんなら、私は、天津祝詞をあげる訳でもなからなければ、大祓いあげる訳ででもない。黙―って、一時間、御神前に座らせて頂くだけなんです。眠るどころか、どんなに夕べ、休んでなくても、もうますます目は冴えてくる。いよいよ、心は冴えてくる。いよいよ、神様との、直に接しれる、いわゆる交流が始まる。ですから、如何に、大祓いを、ね。心経、ここでは心経ですね、般若心経の事でしょう、を、節をつけたり、大きな声をするに及ばん。神には聞こえるんだ。もし、それでやって、心に真が無いならば、神に嘘を言うも同然じゃ。嘘を言われて気分の良いものはありません。気持ちが悪い。神様でも同じこと。ところが、ここに、私ども、一つ分からせて頂かなければならん事です。そんなら、やっぱりですね。柏手一つでもね、パンとこう、打たせて頂く時に、冴えた音がする。パン、(手を叩く音)ね。大祓いでも、それは、節は付けてもあげんでもです。一つのリズムが出てくる。何と言えん、いうなら、合楽には合楽調がある。合楽の、私の、いわば、節回しと言うか、大祓いをあげるでも、若先生が、やっぱり、その私の調子を頂いておる。そして、あの調子に乗って、一つのリズムに乗って、大祓いが、もう声高らかにあげられる。しかも、腹の底から、一生懸命にあげられる。真が、よしなかっても。あの、一生懸命にですね、触れて行く時に、真が引き出される。一生懸命が出てくる。大祓いをあげて、御祈念をした後の、皆さんの気持ちの、清々しいのはですね、真が出ておるからなんです。ですから、神様一心に、心を向けるところの、一つの、まぁ手段というては可笑しいですけれども、方法なんです、やはり。ですから、一生懸命あげさせて頂かにゃいけん。だから、リズムを狂わしちゃいかんです。調子が狂うちゃいかんです。一人、変な調子を出すと、みんなが狂うてくる。先唱しておる先生の、いわば、大祓いの奏上しておる調子に、こちらが乗って、神様に通うて行く気持ちがするでしょうが。どんなに心が汚れておっても、どんなに心が乱れておっても、あの大祓いを奏上させて頂いておるうちに、心は平生になる。乱れておる心も、大祓いを、あれがね、皆さんで、ご自分で御祈念なさる時に、五巻でも十巻でもおあげになる事があるでしょう。そうして行くうちに、いよいよ、自分の心が鎮まってくるでしょう。それが有難い。それでいて、そんなら、段々、やはり稽古です。だまって御祈念をさせて頂いておっても、神様の前が離れられん。もう、立ちあがるのに忍びないぐらいにですね、段々、ならせて頂く稽古は、勿論、大事なんです。ここでは、大きな声を出してはならんと仰るのではありません。真がなければです、神に嘘を言うも同然じゃとこう仰る。
昨日は、あのように、盛大な、春の御大祭が、親先生御祭主の元に、奉仕して頂きました。本当に、感激一杯で、皆さんが、お祭りを頂きました。ところがです、あれだけの御大祭が奉仕されるためには、もう、それこそ、まぁ、厳密にいや、もっとでしょうけれども。一月ぐらい前からは、みんなが、御大祭、御大祭と、御大祭を頂くために、それぞれの修行を始めておる。御大祭までお参りをさせて頂きます。御大祭までは、三度の食事を二度にします。御大祭までは、横になって休みません。御大祭までは、ここの若い修行生の人達は、みんな、御広前で過ごしました。もう、御広前で、御祈念をしながら休むのです。というように、それぞれに、思いが凝らされておる。そして、あの御大祭がね、四月の十六日、ぽかっと、ああして出来たんじゃないです。あれだけの御大祭が出来るまでには、何でも一生懸命に修行しておる。お供え、一つ一つの上にだって同じこと。
例えて言うならば、ここで、久保山先生が、亡くなられてから、こっちは、長男の茂さんが、あの大きな字を、塗板の字でも、大きな掲示板でも、茂さんが承って、やってる訳なんです。御大祭の、あの大きな字を書かせて貰う時に、どうしても最近、筆が立たん。それで、あの掲示をする時に、ちょうど、末永さんが、ご結界に奉仕をして、お取次を頂いて、お願をしてる。そして、霊神様の前に来てから、お父さん、お父さんと、一生懸命にお願いしたち。こりゃ、どうしても、僕は筆が立ちません。久保山先生は、皆さんご承知のように、あぁいう達筆でしたからね。お父さん、力を貸して下さいち。そしてからですね、お願いをした時にですね。初めて、あんなお勇みを頂いた。お広前の真ん中から、お勇があったち言うです。この、空の中からですねお勇があった。もう、それこそ、茂さんも、末永さんも、びっくりしましてね。御霊様が聞き届けて下さった。秋永先生は、ちょうど、お祭りの、前の朝の御祈念の時でした。久保山先生がですね、並生前の姿で、秋永先生に、大祭の打ち合わせに見えたち。皆さんが、一生懸命になっておりますけれども、神様も、一生懸命に、ならねば、御霊様達も、一生懸命なんですよ。合楽が出来るまでの、なかなか大変なことだったんですものね。合楽の教会が、こうして設立されるまでには、沢山の御霊様達が、まぁ、いうならば、人柱ともなりゃ、また、犠牲とも思われる様な、この御造営が、もう、後一カ月で成就という時に、久保山先生やら、総代の田代さんやら、亡くなられたんですけんね。ですから、本当に、あの御大祭というものがですね。どういう様にして、あの御大祭が出来たかと。これも、たびたびの御大祭の時にです、それを思わん訳には参りません。私が、一生懸命に修行したから。私が、一生懸命にお供えしたから、出来るのじゃございません。
昨日、吉備舞の奉納をいたしました、私の三番目の娘でございますけれども。もう、あれだけの稽古をするために、何べん泣いたか知れません。もう姉ちゃんが厳しいものですから、もう、一生懸命、その、あれするんですよね。いわゆる、鍛えるんです。ところが、あんまり、一生懸命、稽古に一生懸命なったもんですから。今度は、お姉ちゃんの方の、声の方が止まってしまったんです。全然、声が出らなくなった。一週間ばっかり前でした。晩のご祈念の時に、ここへ豊美が来てから、泣きだしますけん、何か、どうしたじゃろうかと、私は思いよりました。そしたら、あの、声が止まりましたと言う。大祭には、どうするじゃろうかと言うて泣くとです、ここで。だから、声は出らんでもね、あんたが、真心込めてさせて貰や、それで良いと私は。どんな、声がかすれとってもかんまん。けれども、あんたが、その思いなら、神様が、受けて下さらん筈はないよて。もう、声の止まったことは、神様はご承知じゃから。まぁ、声が枯れただけじゃなくてです。声が止まったら、どうしようかというて泣くのです。ところが、二三日前から、また、前にも増した良い声を頂いたんですから。私は、昨日、とうとう、舞を見る、その時間がなかったですけれども、皆さんが、本当に良い、有難いお舞じゃったち言うてから、喜んで下さった、神様も喜んで下さったと、私は思うのです。というようにですね。もう、舞人は舞い人、楽人は楽人、それぞれの持ち場、それぞれの立場、その、持ち場立場に於いて、それぞれの御用をさせて頂いておる。そして、あの御大祭が出来たんです。
昨日、ある方が、客殿の方を承っておる婦人の方達、勝手の方で、御用を頂いておるご婦人達。だから、勝手の方から見ると、如何にも、客殿、応接間の係りの人達は、良か着物どん来てから、ちゃんと、じっとしてござるごたる。ところがね、これは、この人達でなからなきゃ出来ないんだと。例えば、ほんなら、誰彼が、居たところで、さぁ行ったって、それこそ、てござごせんならんだろう。本当に、お茶の汲み道一つしらんごたる人達が、あそこに居ったっちゃ、どうなるか。偉い先生方が見えるとに、先生のお相手の出来る、話の出来ると言う人達が、そう何人も居る筈はない。神様は、ちゃんと、その持ち場立場に於いて、御用に使うて下さっておるのである。私共が、こうやって、まぁ、良い着物着てから、客殿の方へ、ちゃんと居ると、勝手の方から、いろんな声を、何とはなしに聞きます。こちらへ来て手伝うてくださいと言った様な、あれがあります。だから、エプロン持って、そうさせて頂こうかというお届けがあった。そげなこつは止めときなさい。エプロン掛けの人達は、エプロン掛けの人達で、ちゃんとおかげ頂く。あーた方は、あーた方の、見えた先生方に対して、お粗末御無礼のないように、ちゃんと気を、その代わり、回しときなさい。御茶一服立てて、もうそれこそですね、もう本当に、一生懸命なんですよ。あの繁雄さんなんかが、お茶をなさる。もう、どの一服だって、卒が無い。もうここのお茶は美味しい美味しいち言うて、もう何べんの代わりされたか分からないぐらいに、喜んで、お茶を頂いて下さったそうです、先生方が。だから、その事に、一生懸命になっておる人でなからにゃ、出来る筈じゃないでしょうが。そん時、私、ここで頂きます事はね、役徳と言うことを頂きました。皆さん、良く言うでしょう。まぁそりゃ、役徳たい。炊事場で煮炊きしよる者は、ちょっと、塩梅見ぐらい出来る。役徳です。だから、そういう意味じゃないです。役徳と言うのはね、役はこの役ですけれども、徳と言うのは、御神徳の徳なんです。行にんベンの徳なんです。それぞれの、持ち場立場でね、その役に於いてです。下駄預かりをしておる人は、下駄預かり。自動車の整理をしておる人は、自動車の整理をしておる人達。勝手は勝手、客殿は客殿。そこに、お互いが、いわゆる、真を持って、一生懸命に奉仕をさせて頂くところに、生まれてくるところの役徳なのだ。お互い、役徳の受けられるくらいの御用を頂かにゃ駄目だと言うことなんです。
今日は、ご大祭の反省会が、何時も、大祭の後にはございます。もう何十回反省会をしたか分かりません、大祭たんべんに。ですから、大祭たんべんに、垢抜けしてくる。洗練されてくる。それでも、これで済んだということはないでしょうが。はぁ、今日はまた、あそこを、もう一つこう、心を込めとかじゃいけじゃった。あそこは、もういっちょ不行き届きじゃったと言う事が、沢山出え来るのです。限りが無い、という様に、有難いことへ、有難い事へとこう、立派なものへ、完成へ向かって、進んでいく訳なんです、お互いが。ですから、その持ち場立場に於いてです。その持ち場立場を、しっかり、信心で、真を持ってなされる時に、それが、役徳になるんですよ。役徳をするというのは、儲かると言う、あれじゃないです、私の言うのは。それぞれの役徳なんです。昨日も、お話をするように、各部屋部屋に、お花を入れると言う。それでもです、皆さんが、一生懸命なら、そこから、お徳が受けられるのです。金光様のご信心なそうなんです。お便所の掃除をしても、お徳が受けられる。炊事場の御用をさせて頂いても、おかげが頂かれる。だから、問題はです。そこんところに、お互いが、真を持ってさせて頂く。もし、真をもってしないならば、それは、大きな声で、大祓いをあげたりです。節をつけて、心経を読んだりしておるのと同じである。神に嘘を言うも同じである。一生懸命、エプロン掛けでやってるけれどもです。その内容は、歯がゆい思いやら、腹立たしい思いであるならば、それはもう、神に嘘を言うような奉仕をしておる訳なんです。それじゃ、皆さん、せっかくが勿体ないでしょうが。持ち場立場に於いて、役徳の受けられるような、私は、おかげ頂きたい。今日の反省会には、是非、その事を、皆さんが、もう一遍、徹底して分からせて頂かなければいけない。神に嘘を言う様な御用になっちゃならない。
昨夜、御祈念の後に、久富先生が、もう本当に、お大祭を拝ませて頂いて、もう有難い、有難い、声を出して泣こうごと、有難うなって来た。ところが、段々、ご大祭が、進んで参りまして、親先生の、お祝詞奏上、お玉串、そして、いよいよ、副祭主の私が、玉串をあげる時になった時に、玉串が上げられなくなった。わざわざ、ちゃんと玉串が出来ておった。そうもんじゃから、それが、こんだ、今まで有難かったつが、一遍にその、歯痒い、無念残念という訳ですよね。玉串を親先生に上げさせなかった。まぁ、そういう様な思いをした方が、沢山あったと思うのです。
昨日は、伊万里の竹内先生、帰られてから。また、奥さん宛てに談話がかかってきた。お参りが、こちらへ残ってるから、どうでも、これだけ、徹底して、この次の御大祭には、絶対、親先生が、御祭主して頂かなきゃ出来んと言うてから、もう大変、ああいうその、いうならば、おとなしいお方が、もう語気も荒々しゅうですね。もう、ああいうことで、出来る筈がないじゃないか。親先生が御祭主をなさるのは当然だ。という意味の事を、奥さんに電話がかかってきたち。けれども、どうでしょう。どんなに、麗々しゅう、形姿が出来ておりましてもです。それがもし、形だけであるとするならば、神に嘘を言うも同然なのです。私は、私が玉串を上げられなくなったから、祭典中でしたけれども、私が、神様に、その事をお願いさせて頂きましたらね。こう、あの、よう引幕なんかに、熨斗がついとるでしょう。こんな熨斗が。あのお芝居の引幕なんかに、ね。こんな、こんな形がした熨斗が付いてるでしょう。これを頂くんですよ。上と下は、ばらばらに、こうなってるのだけど、真ん中の、これさえ、きちっと、これさえきちっとしときゃ、熨斗です。神様が受ける、神が受けると仰る。私が、玉串を上げんでも、お前の心さえ乱さずにです。上先は乱れとってもかんまんて。これは、いわば、他人の先生方が、他所の先生方が、いうなら、お付き合いで見える方ばっかりなのだから。そらもう、形だけ、こらもう仕方が無い。けれども、このお祭りを頂くのは、やはり、私なんです。だから先生が、御祭主してくださっとっても、やっぱり、私なのです。それは、玉串をあげなくても、副祭主であってもです、かんまんて。この御大祭の、このゴヒレイと言うもの、この、みんなの真心と言うものは、神が受ける。ところが、私が、もし、久富先生じゃないばってん。はぁ、無念残念と思うたら、どうでしょう。せっかく、それこそ、何日がかり、いや、何十日がかりでです。あの御大祭が出来て、あの麗々しい盛大な、賑やかな、しかも厳粛なご大祭が出来た。あの御大祭をです、神様が、受けて下さらなくなったら、どういう事になるか。本当に、水泡に帰してしまうじゃないですか。久富先生は、それでも、はぁ親先生、これはどういう風に、またお受けになっとるか分からんからと思うて、押さえ押さえさせて頂いて、また、有難くならせて頂きましたけれども、一時はもう、頭に血が上るごと、カーッとしたち。
だから、そういう事は、私共が問題じゃないのだけれども、問題になる。しかも、それが問題が、自分の心を乱してしまう訳になる。これでは、せっかくの、あれだけ何百人の者の真心をです、結集して、神様へ見ても頂きたい、受けても頂きたいと言う、あのご大祭がです。水泡に帰したんでは相ならん。ここのところです。雨が降るから風が吹くからと言うのです。それこそ、雨であったか、嵐であったかも知れんように感じたけれどもです。それを、有難く、受けさせて頂くと言うところにです。いよいよ、身に徳を受ける修行がなされて行く訳なんです。いうならばです、叩かれれば、叩かれるほどです、こっちは強うなって行くのです。そういう生き方がですね、お道の信心なんです。それが、徳を受ける修行なんです。みんなが、信心させて頂いて、お徳を受けなければ、神様のご信用を頂かなければ、人間の幸せはありえないと分からせて頂いたら、いうならば、そのお徳を頂かせて頂けれる、もう、こよないチャンスを頂いたのであるから。そこで、腹を立てたり、心を乱したりしたんでは、せっかくのお徳を頂く機会を、向こうへまた、押し返す様な道理になるのです。特に、ここのところ、神に嘘を言うも同然じゃ。せっかくの、例えば、これは、ほんなら、御用がです。中身のない御用であったなら、ああきつかった、きつかっただけで終わってしまうのですよ。きつかった、けれども、有難かった。その有難かったが、お徳になるのです。
もう本当に、昨日の、御大祭の中からでも、いろいろと、本当に、お徳を頂かせて頂く機会が、沢山ありました。それぞれにあったろうと思います。それを、やっぱり、一応、こう整理してみて、はぁ、あそこは、ああいう受け方では行かなかったという様な所を感じたらです。そこを、今日の反省会に持ち込んで、そして、いよいよ、完ぺきなものにしていくために、お互いが、これからの精進も惜しんではなりません。そして、私どもの、日常生活、いわば、ご大祭を境に、また一段とですね、おかげの受けられる信心に進ませて頂かなければなりません。それはです、ようは、私共が、お徳を頂かせて頂かなければと言う、その願いがです。成就される寸前で、それが、水泡に帰してしまうような事があっては勿体ない。それが、神に嘘を言うのも同然じゃと言った様なことがです。みんな、無駄になって行っておるとするなら。真実、おかげを頂かせて貰うて、段々、おかげを頂きましてね。声を出さんでも、柏手を打たんでも、神様には聞こえる。神様は受けて下さる。どんなに、玉串を、それこそ、十本、百本あげても、神様が、受けて下さらなきゃ何もならん。よし、それは、上げられなくても、神様が、ちゃんと受けて下さると仰るのですから。心に真さえなければとこう仰る。真さえあればと仰る。真が無かったら、受けちゃ下さらない。その真をね、追及して行くために、私どもの場合は、場合に於いてじゃないけれども。やはり、その稽古の過程に於いてですね。やはり、大祓いでも、一生懸命、腹の底から、大きな声をあげないで、また一つの、節でというか、リズムと言うものに乗って、稽古させて貰わなきゃならん。これは、御神前に向かう、大祓い、御祈念の方法だけじゃございません。柏手だけじゃありません。日常生活の上に於いてもです、ね。心に、ちゃんと思うときゃ、神様が知ってござると言うのじゃなくてです。それを、やはり、形にも、本当に現わさせて頂いて、一生懸命のものを現わして行き、真を現わして行かねばならんと思おうのでございます。どうぞ。